# 名前も知らない相手に、なぜ全力で語ってしまうのか
「お疲れ様です」の一言だけで撤収したかったのに、気づけば給湯室で見知らぬ相手の健康相談に全力でのめり込んでいた。
相手は、たしか半年前の全体会議で見た顔。部署はおそらく違う。名前はキャッシュから消えて久しい。給湯室で鉢合わせた瞬間、逃げ場のない狭い空間特有の圧力を感じ取り、自分の中の「気まずい沈黙だけは何としても回避せよ」という古い命令が起動した。本来ならエコモードで会釈だけ返して離脱するはずだったのに、なぜか相手の目の下のクマを検知した瞬間、余っていたリソースを全部そこに突っ込む判断を下してしまった。名前も知らない相手を全力で持て成そうとする、限界社会人特有のオーバークロックである。
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自分「お疲れ様です、なんかお疲れですね」
ゲスト「あ、はい……最近ちょっと寝不足で」
(心の声:出た。疲労シグナル検出。ここで安全に流すか、踏み込むか。判断は一瞬のはずなのに、なぜか今日は踏み込む方を選んでしまった。)
自分「わかります、僕も最近ずっと寝た気がしなくて。何かサプリとか試してます?」
ゲスト「NMNってやつを飲み始めました、なんとなく話題だったので」
(心の声:来た、来てしまった。ここから先は自分の得意分野ではないのに、勢いだけで話を広げ続ける未確認スクリプトが動き出す。)
自分「NMNいいですよね、あと最近発酵食品もいいって聞きますよ、腸から整えるみたいな」
ゲスト「腸活、流行ってますもんね。私は正直よくわかってないんですけど」
自分「実は僕もそんなに詳しくないんです、ただ水で飲むタイプよりグミの方が続けやすいってどこかで見て」
ゲスト「わかります、続けやすさって大事ですよね」
(心の声:会話は繋がっている。エラーは出ていない。だが自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。知識のキャッシュが尽きかけている。)
自分「あ、そういえば……」
(心の声:待て。次に出そうとした言葉は「何か持病とかあるんですか」だった。相手のプライベート領域への不正アクセスに片足を突っ込みかけている。危険。)
自分「……いや、なんでもないです。とりあえず無理しないでくださいね」
ゲスト「ありがとうございます、お互い気をつけましょう」
自分「ですね」
(心の声:ちょうどそのタイミングで電気ケトルが沸騰音を鳴らした。相手が「あ、お湯」と言って離脱していく。環境トリガーによる正常終了。こちらから話を切り出さずに済んだことに、静かに安堵する。)
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給湯室から戻る道すがら、今日のセッションを振り返る。
好感度ハックというプロトコルは、本来「関係性の土台がある相手」に対して発動するべきものだ。今日のように、名前すら不確かな相手に全力でリソースを投下するのは、費用対効果でいえばかなり歪な取引だった。それでも足を止めなかったのは、給湯室という逃げ場のない空間が、こちらの判断力を静かに鈍らせていたからだと思う。
そして今日いちばん危なかったのは、話題そのものより「あと一歩」踏み込みかけた瞬間だった。持病の有無を尋ねる一言は、相手の許可なくプライベート領域に踏み込む行為に等しい。健康の話題は一見無害に見えて、実は個人情報にいちばん近い場所を通る危険なルートでもある。今日はケトルの沸騰音という外部要因に救われたが、次も同じように運良く回避できるとは限らない。
もし今日から何かひとつだけ持ち帰るなら、「相手が明かした情報量以上に、自分から踏み込まない」という一点に尽きる。健康の話は、相手が言った分だけ相槌を打てば十分で、それ以上のディテールをこちらから引き出しにいく必要はどこにもなかった。
本日の自律神経、残量にして体感六割弱といったところ。名前を思い出せない相手との会話は、たとえ円満に終わっても地味に消耗する。次に会うまでに、せめて部署名くらいはキャッシュしておきたい。
名前も知らない相手に、なぜ全力で語ってしまうのか
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